バックナンバー
第20回「 入れ替わったセイメイさん 」
第19回「手枕(たまくら)の松 」
第18回「那須与一さん 」
第17回「腰掛け岩と手跡岩 」
第16回「しばり地蔵 」
第15回「勤王の志士 鳥尾小弥太 」
第14回「コケ地蔵石棺仏」
第13回「加古川城址」
第12回「加古川町友栄町」
第11回 「播州加古川 小児丸」
第10回 「祟りのある石」
第9回「粟津神社の狛犬」
第8回 「太子岩(たいしいわ)」

第7回 「投げ松」

第6回  「神爪の五輪さん」
第5回 「豊澤團平の生誕地」
第4回 「毘沙門天石仏」
第3回 飯盛山祭祀遺跡
第2回 「愛宕塚古墳」
第1回 天竺徳兵衛の墓

第12回「加古川町友栄町」 加古川市加古川町本町

「友栄町をご存知ですか?」本町に住んで居られる人にお尋ねしても、殆どの人は首を傾げられるのではないでしょうか。今回はこの幻の町を尋ねて見たいと思います。

加古川町の発展に日本毛織加古川工場が果たした役割は、想像以上に大きかった事と思います。明治29年(1896)に操業を開始した日本毛織加古川工場は、その後順調に業績を伸ばし、大正時代には工場を増設しなければならなくなり、敷地拡張の予定地として本町商店街の北側、旧北裏地域が候補に挙がりました。

その地域には50数軒の民家があり、すべて移転の対象となりました。大凡(おおよそ)の範囲は、現在のニッケ西門から東へ、西国街道(国道2号線)に沿った表筋の商店民家を残して、その北側の字北裏地域の住宅でした。当時は、現在の東行き一方通行の国道2号線は工事中で、まだ開通していませんでした。

今も昔も住み慣れた土地を離れるのは躊躇します。まして強制的に移転するとなると大変な騒ぎになります。ところが何でも反対の現在と大きく異なるところは、住民の気持ち(考え方)に今とは雲泥の差があった事です。移転対象地域の住民達は、工場拡張推進計画に一致協力して賛同しました。それは当地の有識者や地権者の説得もあったのでしょうが、「工場の発展は、将来に於ける大加古川都市達成の重要な要因になる」との結論で、住民挙って移住を決定したのです。

さて具体的に何処に移転するか、当時の加古川町長小山十次氏を始め町関係職員や日本毛織の尽力で、旧居住地の西南に当たる新国道南側に敷地を確保することが出来ました。移住した50数軒の住民はこの地を永住の地と定め、共に平和で楽しく隣人と友に繁栄を願って「友榮町」と名付けたのです。今から83年前、昭和2年の出来事です。

友栄町の場所は本町にあるお寺、称名寺の西北部に当たる周辺です。今では確実な境界は確認出来ませんが、上記の経緯を記録した石碑「友榮町移転口之序」が建てられています。場所は加古川橋東詰から下って、3本目の道路を右(南)に曲がった最初の十字路角に在り、石碑の横に水路があるので直ぐに判ります。石碑に並んで地蔵堂が建てられ、お地蔵様が祀られ何故か懐かしさを感じます。

石碑は切石を三段に重ねた上に、横幅60㎝高さ120㎝程の緑泥片岩が立てられ、表面には漢文調でぎっしりと前述の内容が彫り込まれています。

石碑前の道を水路沿いに東に行くと、閉店した風呂屋「友栄湯」が在ります。「友榮町」の名が確認出来る唯一のお店ですが、更地になるのも時間の問題ではないかと思います。大加古川都市発展の礎にと移転を決意し、近隣の友と一致協力して町を栄えさそうとした住民の心意気はどうなったのでしょう。石碑の前でこんな思いに耽るのも、自分が歳を重ねたからでしょうか。

現在のニッケパークタウン南側正面の、寺家町筋から国道までの道路は、昭和10年代に、補償も何も問答無用で通した道路です。延焼を防ぐ理由から通したのですが、日本毛織の正門から真っ直ぐ国道に出られる事の意図があったようです。

戦後の昭和20年代後半には、正門前の山ノ内地区や幸町住民と常住寺が移転することになり、日本毛織は更に拡張して最盛期を迎えたのでした。

(文と絵;三浦 孝一)