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メディアの力は人に何をもたらしたか
 

今までのメディアは、あくまで一方からの情報でしかなかった。

その情報の重要性や信頼性がいかようなもので在ろうと、情報の受け手はただ情報を受信するしかなかったのだ。

たとえば、それは見知らぬ喫茶店でコーヒーを飲むのに似ている。そのコーヒーに毒が入っていないとは限らない。が、信用しなければコーヒーは飲めないのだ。社会とはそういうものだった。

そこには社会の一員として意見したり、何かを変えていこうとする意思は入り込む余地はない。 が、情報が双方向であったなら、そこに参加することができる。

おもしろいたとえ話しがある。 Aさんが、「これは丸い」という。またBさんは「いや、それは長方形だ」という。その実態は円筒形。Aさんは円筒形を真上から見て丸いと思い、Bさんは真横から見て、長方形だといっている。 この2人が、議論しなければ実体である円筒形は見えてこない。

「なぜあの人は違うことを言うのだろう」
「もしかしたら私が間違っているのだろうか」
・・ と互いの意見に耳を傾け、自分を疑い、情報を双方向に交換することで実態は姿を表す。

情報が一方方向にしか流れないなら、そこには議論も産まれることはなく、丸か長方形かいずれかの形であると信用するしかない。それは仮想の信用であり、信用しているふりをしているのであり、また相手をいないかのように扱っているだけであるとも言える。

情報が一方方向にしか流れないことにより、あるときは人々に希望を湧き起こしたが、またあるときは悲劇を招く。

これはどちらもメディアの力。力とは、使いようによって人を幸福へも不幸へも導くものだ。

昔は一人の個人が不特定多数の人に情報を提供するには多くの金と労力を必要とした。 それがテクノロジーの発達によって誰でも比較的簡単にマスに向けて情報を発信することが可能になった。 コンビニにはコピーが常設されている。しかも、カラーコピーが1枚たったの何十円で可能である。また、コンピューターからプリントアウトすることもできる。誰もが発行部数の差はあれ新聞をつくることは可能だ。

ホームページは、そのアドレスさえ告知できれば世界中からアクセスが可能である。個人がマスメディア並の情報発信をすることも可能だといっても、言い過ぎではない。

メールを通じて世界にひろまった「100人の村」という寓話もある。これは環境破壊や戦争などについて深く考えさせられる短い詩なのだが、誰が書いたのか作者は不明だ。メールによって人から人へと伝聞していき世界にひろまった個人発のメッセージである。

誰もが情報を受けるだけではなく、自らも発信することができるようになりつつある今、メディアの力、実はそれはなくなったのではなく、もしかしたら個人に委ねられようとしているのではないだろうか?

誰かが歌う歌謡曲が明日に希望を与えてくれた時代は終わりを告げ、あなたが歌う歌謡曲が明日に希望を与える時代がきたのではないだろうか。

そう、ジョン・レノンのイマジンの一節のたった一行は、新聞という力だけのものではなく、あくまでジョン・レノンのイマジンの力との相互作用であったように。 個人の考えや思想が、メディアの力と合致するとき、混沌とした情報の海に、明日を指し示す太陽が昇ってくるに違いない。それが、これからの社会の苗床であると信じたい。


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