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失速するメディア
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1980年頃から、テレビの広告の世界に異変が起きてきた。

人気のある広告の商品が売れないのだ。それまでは人気のある広告の商品は広告の人気度に比例して売れていた。ところがその人気度と商品の売れ行きの曲線が比例しない。

その現象は今だに続いている。おもしろいコマーシャルの内容は覚えているが、そのコマーシャルが何の広告だったかはさっぱり思いだせない。

広告の製作側は、古典的な商品名を連呼する音楽をコマーシャルに挿入したりするが、それでも音楽は皆口ずさむが商品の購買意欲にまでは繋がらない。

これはどういうことだろう?
「メディアの力がなくなってきた」
「マスの時代は終わった」

これが業界筋で定説として語られるその原因だ。今や、マスメディア、それも広告に書かれていることをそのまま鵜呑みにする人はいないのだ。誰もがある意味冷めた目で広告をみている。つまり全面的に信用してはいないのだ。

そしてそれは、広告のみならず、テレビや新聞や雑誌の記事にも言えることだ。 メディアの信用度が落ちたのはマスメディアが資本主義をベースに成りたつ以上、それは来るべくして来る破綻だとも言える。

情報はその性質上、誰かの編集を経て世の中にでる。 これは情報のもつ宿命だ。編集作業は、その発信者の意図がおのずと反映される。情報はそれがどのような種類のものであれ、必ず編集されているのだ。

あえて、もっと悪い言葉でいうなら、あらゆる情報には嘘が内包されているのである。そして情報が身近になるとその嘘に人々は気がつきはじめた。

信用が落ちたとはそういうことだ。

また、昔と違いメディアの種類の多さも、メディアの力がなくなった原因とも言える。

インターネットは、多くの人の目に触れる可能性があるという意味で、マスメディアだと言える。その普及は人々からテレビを奪いつつある。都会の若者はワンルームにテレビを置かずパソコンだけを置くというシンプルなライフスタイルを好むという統計結果もある。

テレビにしても、従来の地上波のほかにCS放送やBS放送、またインターネット網によるブロードバンド放送など実に多くのチャンネルが存在する。昔は、テレビは全国共通の話題を提供したものだ。街頭テレビの前は力道山の空手チョップに白熱する群集がさながら祭りのように沸いていたし、学校や職場や町内の井戸端会議では連続ドラマの行く末が常に話題になっていた。

人をまとめる共通の文化 国家とか民族という括りは、国境や政治が作り出すものではなく、共通の文化によって自然に産み出される「群れ」の意識だと思うが、テレビはこの群れの意識を形成するのに一役かったのではないかと思う。

最近では「ワールドカップ」。多くの人があの祭りで「自分が日本人であることを認識した」と言っている。しかし、ワールドカップは例外中の例外であろう。今、ワールドカップ並に多くの人を白熱させるイベントは皆無だといっても言い過ぎではない。

多くの人々の関心ごとは、さまざまなベクトルを示す。多様性の時代なのだ。選択肢は山ほどある。 マスメディアは、人々を収束させる力を失いつつある。人々には共通の不幸もないし、共通の話題もなくなりつつある。

ましてや情報は氾濫している。誰もが同じ方向を向いてはいない。それはある面、「自分に関係のない事以外には無関心だ」という風潮をつくり出し、また別の面では「多様な文化を生み出す可能性」にもなっている。

マスメディアは力失い、情報は多種多様なベクトルを指ししめす。選択肢は数多く存在し、自分の気に入らないものはスイッチを切り、目と耳をふさげばよい。自分にとって意味のあることを追い求め、快楽を突き進めばよい。

こう書くと、実に混沌とした情報の海で、私達は快楽のみを追い求め世界は荒廃しつつあるように思えてくるかもしれない。しかし、すべての社会システムが混沌を母体として産まれでたように、この混沌とした状態は、きたるべき新しいメディアや新しいコミュニティの在りかたへの転換期なのではないかと思う。


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