旅行先の河川敷で迷い犬を見かけた。赤いリードを引きずりながら河川敷の駐車場でウロウロしていた。
「まぁ、近所の犬だろうから、すぐに飼主さんが探しにくるだろう」と思って放っておいた。

次の日、同じ場所に行くとまだいる。赤いリードは外れていたが、間違いない昨日の犬だ。どうも駐車場から動く気はなさそうなので飼主を待っているのだろうか。

しかし、こちらは旅行者の身。どうすることもできない、警察に連絡してみたが、迷子の犬を探しているらしい飼主の情報は届いてはいないようだった。

で、インターネットで近所の保護活動をしている民間の団体を検索し、連絡したのだがこの時思ったのは実に多くの迷い犬情報や捨て犬情報や里親募集情報がネットにはあふれている。

それが一箇所にあるのではなくいたるところに散在している。それぞれの団体が、あるいはそれぞれの個人が情報を発信してはいるが、その横のネットワークは構築されていない。

結局、連絡をとった保護団体に行きつくまでに半日を費やすことになった。

情報の総量としては膨大だが、膨大すぎる情報から必要な情報をチョイスするのはあくまで「私自身」の作業なのだ。

実は、僕は新聞を取っていない。

古新聞が山になるのが煩わしいのと、テレビやラジオ、そしてブロードバンドでインターネットに接続するのに料金を気にする必要がなくなったので思い切って新聞を取るのをやめた。

朝起きると、パソコンをたちあげ、コーヒーを啜りながらのニュースサイトのヘッドラインを読む。

ところがニュースサイトのヘッドラインは新聞のような大きな見出しがついているわけではない。新聞で1面トップの記事も三面記事も同じ大きさだ。だから、自分の頭の中では芸能ニュースが1面トップを飾ることもある。

出先で今日のニュースが話題になったときに少々ズレル場合もでてくる。

「たいへんなことだな、北海道の事故」
「え、なにそれ?」となる。

「近所にできたあの店・・・」とかの話題になると折込広告を見ていないから皆目だ。余談だが、喫茶店や図書館や病院や市役所のロビーでも新聞は読めるし、コンビニでも売っているが、折込広告を見るには新聞を契約購読するしかない。なんとかならないものか・・・。

つまり、こういうことだ。新聞は新聞社が膨大なニュースの海の中から情報をチョイスし、それにパブリックな順位をつけて私達の目の前に届けてくれている。テレビもそうだ。

ところが、自分で情報を得ようとすると膨大な情報の海の中をやみくもに泳ぎつづけることになる。

時には、マスメディアが世論を誘導しているかのような批判が沸き上がることがある。

たしかにワイドショーの過熱報道を皆、眉をしかめながらも見ている姿はおかしなものだし、テレビが報じていることに異を覚えることも多い。「それは、世間様の意見じゃなくて、あなたの意見でしょ」と突っ込んでみたくなる。

が、それは情報を束ねるということの宿命ではないかと思える。

アメリカは、おそらく世界でもっとも多種多様なメディアが存在する国だ。テレビも数多くのチャンネルが存在するがそのどれもが良いように表現すれば個性的、悪いように表現すれば偏っている。

そんな情報の乱気流の中、振り回されないようにメディアリテラシーの授業が学校では行われているのもうなずける。

では日本はどうか?どのメディアも多少の差はあるが、大きな差はない。これはメディアがスポンサーというしくみで成り立つから起こる現象なので、いちがいに良いとか悪いとか言えない複雑さがあるわけだが、選択するメディアが多ければ、束ねる宿命の中にも世論は形成されるのだと思えるのだ。