フリーペーパー「加古川ヘヴィメタル通信」と加古川カルチャー

ここのところ、フリーペーパーが再び脚光を浴びているようだ。無料であるということ以外はフリーペーパーに厳密な定義はない。求人情報から、コマワリされたいろんなお店の連合広告もフリーペーパーの一形態である。

最近では、お店の割引広告がついている形のものが多い。加古川あたりでは、まだ1枚ものが多いが東京など大都市の割引広告の形態のフリーペーパーは、数百ページにもなるものがある。巻頭には、有名人のインタビュー記事があり、表紙もその有名人の写真で飾られる。まず手にとってもらい持って帰ってもらうということのために各誌は工夫を強いられているのだ。

またR25やTOKYOHEADLINEなど、記事に力を入れたフリーペーパーも登場してきている。

かつてのミニコミブームが、いまやブログに置き換わり、ペーパーメディアで情報発信をするというお金のかかることはあまりしなくなった。ペーパーメディアには印刷費の捻出や、配布場所の確保などの営業活動が必須であり、それは時としてメディアを造り出す作業よりも時間や労力がとられる。

そのため多くのミニメディアは、営業活動に主力を置き、内容が陳腐なものなるか、金が続かずに廃刊に追い込まれたりした。この構図が内容あるフリーペーパーを次々と伝説にしてしまったわけだが、最近ではフリーペーパーに限らず、老舗のタウン誌までもが経済的に行き詰まる。

おりしも月刊神戸っ子が、銀行取引停止のニュースが耳のはいった頃、そのフリーペーパーを編集部のらりほうが寺家町で入手。どうやら、コンビニのコピーで印刷しホチキスで留めたわずか8ページのフリーペーパー。名前は「加古川ヘヴィメタル通信」、発行元は社団法人加古川ヘヴィメタル協会。裏表紙には「資本主義FUCK利益いらんトントン主義」と書かれている。

トントン主義といいながら、コピー代金はらってるから赤字だろと、ツッコミを入れながら、よく見ると「15/30」というナンバーがコピーではなくボールペンで書かれていた。つまり、30部製作した15冊目といいうことだ。リトグラフなんかで打つ通しナンバーと同じようなものだ。

どうやら、社団法人加古川ヘヴィメタル協会は、このインスタントでなんでもパソコンがはじき出してくれる時代にまさに手作りでわらじをつくる職人のごとく一冊一冊を手作りしているのだ。

さらにページをめくって、驚いた。NHKの「挑戦者たち」の田口トモロヲ風に言うなら「ど肝を抜かれた!」。全ページ、手書き!しかも鉛筆!なのだった。

そう、かつてフリーペーパーを作り始めた僕たちは、手書きでホチキス綴じのどうみても雑誌には見えないものに、シコシコと自分の意見や思いをぶつけていたのだ。体勢は悪くても、書いてる内容は誰にも負けまいと、書いて書いて書きまくり、当時発売されたばかりのカップヌードルを食べることを夢みていた。(当時はカップヌードルさえ高価で、普段は普通のインスタントラーメンを丸かじりするのがミニコミ編集者の常食だった。なぜ丸かじりかと言えば、そのほうが胃の中にながいことあるので腹もちがよかった。考えたらすごい生活だ。よく生きてたものだ)

このヘヴイメタルマガジンは、まさにその頃の「ニオイ」そのものなのであった。

へヴイメタルマガジンの巻頭の文章を紹介しよう。

「僕達、加古川ヘヴィメタル協会は加古川駅前路上で新しい若者カルチャーを作りたいとゆう意志でフリーペーパーを作りました。僕達の知っている若者カルチャーってアコースティックの弾き語り、スケート、ダンス、BMX、漫才 等々みんなそれぞれ自分の好きな事をやっていて、とても素晴らしいなと思います。そんな若者達から僕達も刺激をもらってフリーペーパーという形で加古川駅前路上若者カルチャーに参加したいと思いました、字も汚いし話もおもしろくないです。でも僕達も自分達のフリーペーパーをやってみたかったからやりました。自己満足の世界です。そして自分達が少しでも成長できればと思っています。理想をゆえば駅前路上カルチャーの発展及び、加古川全体が発展すればと思っています。」

さて、ここで君たちの先輩として言いたい。表現は、相手に伝えようとする意志だ。そういった意味においてこのヘヴィメタルマガジンは自己満足ではない。自己満足とは、相手に伝える意志もないくせに行政の金でカルチャーもどきを作ろうとする大人がやってることだ。ほっとかこがわは、そんな連中から金をもらって飯を食べているからここで具体的に書けないという大人のシステムの中でアップアップしてるけど、君たちこそ表現者だと言いたい。はよ、次号書け!若いうちのマスターベーションは、相手がみつかれば素晴らしいSEXに発展し、そして一生大事にすべき価値観という子どもを生み出すぞ。

もうひとつ、ヘヴイメタルマガジンの中から「道草物語第1話 内なる炎」を紹介したい。

「学歴、地位、名誉、才能、点数…。全て、自分を確立させ、自分というものを社会にあてはめるパズルのピース。

どれもがきれいにはまれば、一人前。どれか一つでもポンコツなら、落ちこぼれ…。一体誰が決めたんだ?そんなわけのわからんパズル。どれか、一つ欠けても、一つもなくても生きれるわい!俺には一つもないね、けど、やりたいこといがある。内に秘めた炎を燃やして、混沌とした社会、間違った世の中を真っ向から叫んでやる!それを奴らが笑うなら、俺はこう言ってやる。

「足跡見ながら迷わず歩くのは楽しいですか?」
否定もしない、肯定もしない。ただ、こう言ってやるさ。」

さて、冒頭の話にもどろう。現在のフリーペーパーブームの特徴的なことは、ミニコミという表現の延長にあるのではなく、広告の延長にフリーペーパーがあるということだ。早い話、1枚のチラシを多くの店で割り勘でだそうよということである。そしてその付加価値、つまりオマケとして記事がついている。

しかしながら、表現という奴は、たちの悪いストーカのようにしぶといのも事実。そのオマケに表現者達は席を移し、都会ではオマケの質がどんどん上がってきている。ペーパーメディアではないが、アニメや特撮ヒーローものなんかも、どちらかというとこの手口だ。子ども向けスポンサーをつけながら、内容は大人が見ても解らないような複雑な人間関係がテーマだったりする。つまり賢く金をせしめて、スポンサーを納得させつつ自らの表現をしてしまおうということだ。

このニュータイプなやり方に、昔ミニメディアをせこせこと作っていた連中は眉間に皺をよせる。彼らは商業主義と表現は相反するものであると考えているというよりは、どちらかというとアンチ商業主義を掲げてミニメディアを発行し、だからこそフリーペーパーという形をとらざるを得なかったからだ。

しかし、商業主義と表現は共存は可能である。企業であれ小さな店であれ、表現がないところに客は集まらない。名前を連呼するコマーシャルが、商品の購買に比例しないことはすでに多くの大企業は体験済みなのだ。そこには企業としての明確な表現が求められている。それが企業メセナとかフィランソロピーとかの言葉の真意であるわけなのだが、実は日本ではどうもそれらの言葉は勘違いされているようだし、加古川にいたってはその真意を考える奴すら皆無だ。

( 2004/12/29)